西郷隆盛の足跡を辿る④ ~ 明治10年8月17~20日 ~

こんにちは、延岡市北川町、地域おこし協力隊のヤマダです。

無事にクランクアップを迎えた、NHK大河ドラマ「西郷どん」。

私の住む宮崎県延岡市北川町は、西南戦争の舞台であり、西郷隆盛による薩軍の解散布告令が出された歴史的に重要な地となっています。

DSCF0891.JPG伝 桐野利明(中村半次郎)の刀 西郷隆盛宿陣跡資料館】

大河ドラマ効果か、今年の北川町は各メディアの西郷隆盛関係の取材対応でてんやわんや。

西南の役で西郷隆盛が北川町で過ごしたのは、延岡城下から舟で可愛(え)に上陸した明治10年8月12日から、8月20日に可愛岳を越えて高千穂の三田井へ向かうまでの、およそ一週間。

その一週間で、西郷隆盛は、薩軍の解散、家族・弟との別れ、共に戦った仲間の自刃など、激動の日々を過ごします。

明治10年8月に西郷が過ごした場所は、現在はどうなっているのか?

これは、北川町における西郷隆盛の足跡を辿るブログの最終回です。

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西郷隆盛、陸軍大将の軍服を焼却

西郷は、桐野、村田、池上、別府、中島、佐藤、辺見、河野らとの最後の軍議の末、
宿陣地である児玉熊四郎宅(現:西郷隆盛宿陣跡資料館)の裏に聳える、可愛岳(えのたけ)を越えて高千穂の三田井へ出ることを決める。

出発は明治10年8月17日午後10時。

可愛岳突囲を決めた西郷は、児玉熊四郎宅の庭で当時一着しかなかった、天皇より賜った陸軍大将の軍服や重要書類を焼きます。

20171127-DSC_0942-min.jpg【陸軍大将の軍服のレプリカ:西郷隆盛宿陣跡資料館】

可愛岳は急峻な崖もありますので、600を越える人数が一夜で通過するには迅速な行動が必要です。

そのために荷物を軽くするのは必須。


それも理由の一つでしょうが、軍服や重要書類を焼いたのは生還の望みが薄い作戦を行うにあたり、身辺整理の意味もあったのではないでしょうか?

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身辺整理を終え西郷隆盛と西郷軍の兵約600名は、俵野の農家兼猟師である立山八五郎と児玉平吉を可愛岳突囲の道案内役として雇い、明治10年8月17日午後10時に出発しました。

【画像可愛岳突囲口】

西郷たちが可愛岳に登り始めた場所は、現在も、可愛岳登山道南ルート登山口として現存しています。

闇夜に紛れて可愛岳を登り始めた西郷と西郷軍。
官軍は可愛岳の稜線上にも布陣していましたので、包囲網を破るには警備が手薄である急峻な場所を登らなければなりません。

可愛岳突囲中の西郷隆盛の人柄を表すようなエピソード

IMG_20171208_123839984.jpg【百間(ひゃっけん)ダキ"】

可愛岳突囲中に、西郷は可愛岳山頂直下に聳える、"百間ダキ"と言われる高さ約70m、幅は百間(180m)とも言われる大きな崖の脇を登ります。

この時、西郷さんは崖を這うように登る様子から、「夜這んごつあるの(夜這いのようだな)」と冗談を言ったそうです。

生死を掛けた緊迫した状況にも関わらず、ユーモアを忘れないところが、多くの人に愛された西郷さんの人柄がうかがえるようなエピソードです。

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西郷軍は、百間ダキの西側を迂回して稜線に出、8月18日の夜明けと共に稜線で露営していた官軍を襲います。(画像赤の実線)

西郷軍の侵攻を予想していなかった官軍は、寝込みを襲われて四散。包囲網の突破を許します。

明治10年8月18日 可愛岳突囲のもう一つのドラマ

一方、同18日、俵野では児玉イセ宅で療養していた、西郷隆盛の息子菊次郎が永田熊吉に連れられて投降。

その時、迎えたのが官軍の陸軍仲将、西郷従道(西郷隆盛の弟)でした。
児玉イセ宅で療養中に菊次郎の看病にあたったのは、西郷隆盛の妻、糸であったとも言われています。

飫肥隊隊長で、飫肥の西郷と言われた小倉處平は、和田越決戦で受けた傷を療養中に西郷隆盛の突囲を知り、後を追うが官軍の哨線に紛れ込み、高畑山の山中でノドを突き自決。

IMG_20171218_154920399.jpg【小倉處平自刃の地:高畑山】

西郷隆盛宿陣跡資料館から、南に約1kmほどのところにある高畑山の中腹に、小倉處平が自刃した場所があります。

可愛岳突囲を成功させた西郷隆盛は、北川の山中を祝子川方面へ

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画像、黄色の線の右下から左上が、西郷軍の進行ルートです。
可愛岳の直下にある百間ダキを西側に迂回し、尾根に出て和久塚(画像の赤丸部分)で露営したという記録があるので、そこまでと、和久塚の先のルートは推測です。

ここでも、西郷さんの人柄をうかがわせるエピソードがあります。

和久塚で一人の兵が小さな鍋で飯を炊き西郷さんに進めると、

「わしは何もしない、皆は今朝からの戦いで腹がへっているだろう」 と言って、箸をつけなかったといいます。

西郷さんの、部下を気遣う気持ちが感じられるエピソードですね。

明治10年8月19日・20日 祝子川へ到着した西郷たちは、鹿川越を抜け三田井へ向かう。

明治10年8月19日、祝子川の小野熊治宅に宿泊

翌20日、西郷たちは現在の延岡市北方町と北川町の境である、「鹿川越(ししがわごえ)」を通り、三田井へ向かいます。

P3191773.JPG【現在の鹿川越へと向かう道】

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上の画像が、鹿川越の直下です。(画像は以前行われた、鹿川越を歩くイベントのもの)

大崩山と鬼の目山を繋ぐ稜線上の、一番標高の低くなっている所が「鹿川越」と呼ばれていて、 古くから北方町と北川町を繋ぐ交流の道となっていました。

鹿川越を抜けた西郷は、三田井へ出て九州山脈を南下、明治10年9月1日に故郷の鹿児島へたどり着きます。

その後の西郷隆盛の運命は、皆さんご存じの通りと思います。
鹿児島へ着いた西郷軍は城山を占拠し、そこで官軍と交戦するも西郷軍は全滅。

明治10年9月24日 西郷隆盛は別府晋介に介錯され自刃します。

北川町を宿陣地としたことで、西郷隆盛の運命は変わった!?

自刃という結果になってしまった西郷隆盛の最期。

しかし、最期を故郷鹿児島で迎えたことは、良かったことのように思えます。

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実は、薩軍が北川町俵野に宿陣した日に、官軍は薩軍の包囲網を完成。
明治10年8月19日に総攻撃の作戦であったと伝えられています。

その、官軍の総攻撃作戦予定日の2日前に西郷たちは、可愛岳突囲を成功させ、鹿児島へ帰ることができました。

和田越決戦のあった15日の時点で、すでに薩軍の包囲網を完成させていたとされる官軍。

すぐに攻撃に移れなかったのは、西郷隆盛が宿陣していた場所のすぐ裏が、天孫ニニギノミコトの御陵墓だったからと言われています。

その間に西郷隆盛は、妻の糸や息子である菊次郎に、別れの挨拶をすることができました。

DSCF1008.JPG

西郷隆盛最期の重要なドラマの地となった、延岡市北川町。

西郷隆盛の宿陣した児玉熊四郎宅は、現在、西郷隆盛宿陣跡資料館として開館しています。

そして、西郷を守ったとされる天孫ニニギノミコトの御陵墓参考地や、西郷隆盛の息子、菊次郎が療養した家や、そこに看病に訪れたと言われる西郷隆盛の妻、糸。

数々のドラマが生まれたこの場所は、 西郷隆盛青空テーマ館 として見学ができます。

ぜひ、歴史の舞台となった、延岡市北川町へ訪れてください!

きっと、新たな発見が見つかるはずです。

北川町における、「西郷隆盛の足跡を辿る」は、今回で最終回とさせていただきます。

長文となりましたが、ご覧頂きありがとう御座いました。

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延岡市は、東九州地域の中心的都市として、旭化成を中心とする工業集積をはじめ農林水産業などの多彩な産業を有するとともに、海・山・川の自然に囲まれ、歴史的には内藤家七万石の城下町として栄えてきた、産業と自然や歴史・文化が調和したまちです。

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